ある作品を前にして、何の知識もなしにそこに強い何かを感じることができたなら、その作品には本当の力があるのだと思います。
有元利夫の作品にもその「何か」があると思います。何も知らなくていいのだと思います。
だけど知っていたらもっとその魅力に引き込まれることもあるかもしれません。有元作品の根底には作家の様々な深い意図があります。それは作家が生前に自身で手がけた画文集『有元利夫 女神たち』(美術出版社、1981)にとても詳しく書いてありますので、そこに書かれた文章の題名をいくつか下記に列挙します。
ひとりの舞台
古典との出会い
消す男
様式について
音楽が漂う画面をめざして
「覆う」ということ
光と影と量と線
見ることと作ること
浮遊すること
バロック音楽との出会い
いい絵、いい物
手品の嘘、演技の嘘、そして真実
風化−時間との共同作業
配達される才能について
道具あつめ
絵の名前−タイトルについて
これらはどれも有元作品における重要なキーワードで、頭の片隅において作品を観るだけでも、もっと有元利夫の世界に近づけると思います。この中から一つだけ選ぶということはできませんが、今回は「風化」について少し書いてみようと思います。
有元利夫は作品の表面に風化を意識し、時に額縁にわざと虫食いの穴をあけたり、絵の表面を削ったり、いったん紙をしわくちゃにしてからデッサンを描いたりしました。それは「時間に覆われていくことによってものの在り方が強化されることを表現したい、早く古びさせてしまいたいという気持ち」(『有元利夫 女神たち』 1981 p.116)であると説明しています。現代の建築や日常製品、もしかしたら美術作品も、出来たてが一番きれいでその先の姿は想定されていないものが多いようです。有元はそういうものよりも、イタリア初期ルネサンスのフレスコ画や奈良時代の仏像など両洋の古典美術にみられる経年の変化を示した表面や質感に魅力を感じていたようです。
「風化」を美しいと思うその姿勢は、不完全な美の賞讃という日本の茶の湯における美意識に通じるところがあるのではないでしょうか。そしてそういう姿勢は、近代化・欧米化が進んだ現代にこそ日本の美意識も再認識し、再評価しようという思いを鼓舞してくれる気がします。
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